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井上陽水と尾崎豊

私は二人とも好きである。

 

しかし、対照的だ。

一人は未だに67で現役で歌っており、もう一人は26で酒の飲み過ぎでこの世を去ることになった。

 

井上陽水の『My House』を聞いているときに、

二人の違いがどこにあるのか、自分なりに分かった気がする。

 

『My House』は完全に、ある意味では、ふざけている曲ともいえる。

普通に聞こうとしても、意味は全く繋がらない。

『俺はシャウト』と同じように、言葉で遊んでいる。

 

いい方向に頭が狂っている人が好きな人にはよい曲だと思う。

一体この世の中で、全く順応している人には、機械的なものを感じてしまう。

 

そんな『My House』で、見つけたネタは

 

俺の悲しみは Maman-

雪の白アリはわからんム

 

という、意味不明な箇所である。

基本的に、この歌の大意を取ろうとすれば

ロックビジネスのなかで、俺の曲もヒットするために書いているような

そんな中で歌をやるのも、もう疲れたし、やりたくもない

 

ということだろう。その悲しみは、

 

Maman-

雪の白アリはわからんム

 

ということだ。

 

もちろん、歌詞だけでは意味は伝わらない。

どのような曲に、どのような声で、どのようなピッチで歌っているかを含めて

意味が構成されるので、そこは各自で聞いてみてほしい。

 

とにかく、陽水はこの状態を、なんとか笑い飛ばすことができたのだ。

陽水も薬をやったが、まだ元気にできている。

 

尾崎にはそれができなかった。

尾崎には『My House』を歌うことはできなかっただろう。

 

この違いこそが、

井上陽水が好き

というときと

尾崎豊が好き

という、ときに持つ意味の違いだ。

 

そして、ここの尾崎の陽水との在り方の違いこそが

彼を熱狂的に慕うものがいるのと、

彼を気持ち悪いと毛嫌いするものがいる理由だ。

私見では、どちらも尾崎は嫌だったろう。

 

熱狂的に慕われると、重すぎる。

しかし、責任感があまりに強すぎる人間はそれを断れない。

人間には背負えないものを背負おうとしてしまう。

嫌われ、罵倒されるのは

感受性が豊かな人間には耐えることは難しい。

さらに言えば、自分に対して不信があるからこそ、

その不信が頭を擡げてくるからこそ、苦しむのだ。

 

それこそ、尾崎が死んだときに

正直、俺ホッとしたよ

 

と、ある人に言わせた理由も、

彼がこのような人間で、つねに不安であったからだろう。

絶対的に頼れる何かが彼には必要だった。

 

しかし、絶対的に頼ることのできる人間などいない。

あまりにも、重すぎるのだ。

人間には不可能なのだ。

 

しかしそういう対象を見つけられない限りは、

自己否定(世界嫌悪)の極地である鬱病になるしかなかった。

あるいは、薬か酒に走るかしかなかった。

とんでもなく苦しかっただろう。

 

尾崎の重さは『核(core)』にみえる。

こんな曲は、生きてくる中で

大きな精神的危機を迎えたことがないものには理解不能だろう。

更に、このような人間の根底に横たわる問題を見ないように、封印した人間には

この問題を再び眼の前に突きつけられることは不快なことだっただろう。

 

しかし、この文章もあれだ。

よく意味が分からなくなってきた。

 

纏めてみよう。

 

尾崎は、人間にとって最も重要な問題に苛まれ続けた。

あるいは、どこまでも誤魔化さなかった。そして苦しんだ。

陽水は、それを同じように苦しんだが、

あるところで打ち切って、笑い飛ばすことにした。

 

この違いだ。多くの生きる人は、後者だろう。

尾崎が嫌われる理由の一つは、

その打ち切りかたを否定したからだ。

あるいは、彼はそのように生きており、

それを歌にしたから、嫌われているのかもしれない。

そして、彼のことが好きな人は、

だからこそ彼が好きなのだろう。

 

 

ちなみに、この文章での尾崎豊も、井上陽水

私のなかでの勝手な像であって

現実とは全く異なっているかもしれない。

それでも、言いたいことは伝わるだろう。